2012.10.01

心のふるさと

 先日、秋のスペシャル番組をつけていたら、
突然、宝塚のスターたちが出てきて、歌い踊り出した。

男役は全員、燕尾服にシルクハット。
トップスターの燕尾服には、スパンコールで模様が描かれていて、
キラキラと光っている。
そして、背中には孔雀のような羽。
宝塚レビューの定番スタイルである。

それまでいいかげんに観ていたのに、
テレビの前に座って、しばらく見入る。

「○○さんの娘さん、出てるかなぁ・・・。」
主人のいとこの娘さんが、今、宝塚にいる。
でも大階段に立ち並ぶ大勢の男役たちは、
どれも同じ顔に見えて、結局わからず終いだった。

宝塚。

子どもの頃は大好きだったけど、
思春期になって、何だかバカらしくなってしまった。
ところが大学生になったとき、
小学校時代の同級生が入団して活躍し出したので、
また観に行くようになった。
そして結婚してからは、時間的にも気分的にも、
宝塚どころではなくなってしまった。
いとこの娘さんの舞台には、何度か行かせてもらったが、
もう今のスター配置図は、さっぱりわからない。

「こんなん観たら、また行きたくなってきたな〜。」
主人に言ってはみたものの、おそらく当分行くことはないだろう。

それでも、いつ見ても、宝塚は同じことをやっている。
人が変わっているだけで、衣装も、髪形も、お化粧も、
そしてお芝居やショーの内容も、ほとんど同じようなものである。

私のような関西人にとって、
阪急電車に吊り下げられた宝塚のポスターは、
小さい頃からなじみ深いものである。
たとえ、十年以上観ていなくても、
あのポスターを見るだけで、あ〜やってるんだな〜、続いてるんだな〜、
と安心する。

でも、宝塚のポスターは、たいていがダサい。
どぎついお化粧と大げさなポーズは、
宝塚に拒否反応を示す人がいても仕方がないなぁ、
と感じさせるものがある。

もともと宝塚は、小さな温泉町だった。
今は、駅前に高層マンションやショッピングセンターが建ってはいるものの、
どこか垢抜けない田舎の雰囲気を残したままでいる。

宝塚大劇場は、
私が子どもの頃からは、一度建て替えられてはいるものの、
その外観は子どもの城のようで、可愛らしくはあるけれど、
洗練されたイメージは、ない。

黒木瞳や天海祐希や壇れいのような女優を輩出しようとも、
それは、変わらないのである。

それでいいのだし、それがいいのだ、と思う。

いつも、すぐそこで、ずっと同じことをやっている。
観たくなったら、いつでもどうぞ。
そう言ってくれているような気がするのだ。

これは、東京で宝塚を観ている人にはわからないだろうと思う。

そして又、生活の中にどっぷり宝塚を取り込んでしまっている
ディープなファンにも、わからない感情だと思う。
密着しすぎると、宝塚の郷愁はわからなくなる。

思えば、私にとっての宝塚とは、
数々の音楽を知る入り口となっていたように思う。

シャンソン、ミュージカルに始まり、
スタンダードジャズ、アメリカンポップス、
映画音楽、クラシック、民謡・・・、
カーペンターズやエルトンジョンの曲を最初に知ったのも、
小学生時代の宝塚からであった。

白井鐵造という人が、パリに行って、レビューを学び、
それを「モン・パリ」という日本初のレビューに仕上げて宝塚で上演したのが、
昭和2年の時。

その後も、パリから持ち帰ったシャンソンに文語体の歌詞をつけて、
宝塚で次々と歌わせ、名曲となった。
その中の一曲が、かの「すみれの花咲く頃」である。

その中のひとつに「宝塚我が心の故郷」という曲があるが、
まさに、私の気持ちもそうである。

宝塚わが 心のふるさと
なにゆえ人は かくは呼べる
美し園は 数多(あまた)あれど
なにゆえ人は 汝(なれ)にのみ憧る 

あらためて歌詞を見ると、立派な古典だけど、
今の平成生まれジェンヌでも、この歌は必ず歌っているはずである。
苦節20年近く宝塚でしのぎを削ったスターたちも、
退団する時は、舞台で歌った数多くの歌の中から
この歌を選ぶらしい。

伝統、というものの素晴らしさを感じる。

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